8月8日、愈々、北京オリンピックが開幕する。色々と取り沙汰されている北京大会だ が、世界を一つに結ぶ平和とスポーツの祭典が、成功の内に終わってほしいと願っている。ところで、競技最終の種目を飾る華は、何といってもマラソンだ。日本のお家芸といわれ、男女とも金をねらっている。ところが、友邦・韓国も、マラソンをお家芸としている。今年の北京オリンピックでのマラソンも、日韓の戦いが関心をもたれている。
それにつけても、思い出すのは、1936年、ベルリン・オリンピックのマラソンの覇者は、併合下の日本選手で韓国人の孫基禎選手だったことを忘れることはできない。 オリンピック新記録2時間29分19秒で、テープを切ったのだ。何と3位の銅メダルも、同じ京城(現ソウル)養生高等普通学校で、共に学んだ南昇竜選手。
表彰式は、2本の日章旗がひるがえったのだ。世界中を沸かせた。
しかし、二つの祖国を持つ、勝者の青年の心と彼を囲む環境は複雑だった。貧しい家庭に生まれ、生家のそばの鴨緑江で滑るスケートが買えず、ただ走るスポーツに専念した子供の夢が叶ったのだった。幸せの絶頂だが、胸に掲げる国旗は、日の丸のみだったのだ
しかも、その後、 朝鮮内地で行われる予定の歓迎会が、ほとんど中止となってしまったのだ。現地の東亜日報が、喜びの報道の中で、ゼッケンの日の丸を塗りつぶした孫選手の写真を掲載し、日本の官憲により記者は逮捕され、新聞は発刊禁止の処分を受けるという事件が起きたのが発端だった。孫選手には、私服の警察官が張り付き「要注意人物」になっていた。彼の心は揺れ、陸上競技への意欲を失い、翌年、明治大学予科に進んだが、陸上競技部には入らなかった。
太平洋戦争後、大韓民国が建国し、孫氏は韓国籍に戻った。コーチとして後進の育成に尽力し、多くの名選手を育てた。そして、韓国陸上競技連盟会長に就任する。ソウル・オリンピックの開会式では、聖火を高く掲げてスタジアムに登場した勇姿は、往時を知る人々ならずとも涙なくしては見れない感動のシーンだった。氏は、2002年11月15日、90才の一期をソウルの病院で静かに終えた。戦前、戦後を通じて、常に親日的で、陸上競技関係者はもとより、広く、日本の友人を持ち、最も近い二つの国が相克することに心を痛めていた。東京日韓親善協会にも度々寄られ、ご自身が、優勝して獲得した兜(ギリシャのマラトン高原を走破して、 自国の勝利を伝えた勇者が被った兜の原寸大のレプリカ)を、日韓親善のためと寄贈してくれた。孫基禎とサインも入れてくれ、今、私達協会の大切な宝物になっている。又、氏のご令息は、神奈川県に在住し、日韓親善のためご尽力を重ねられており、 氏の人生を聞くことができた。
私達は、歴史の事実を消すことはできない。戦えば、勝者も、敗者も出る。一方からすれば許しがたい歴史であり、一方にとれば、忘れなくても良い歴史であるかもしれない。しかし、人類の永い歴史の中で、戦い、攻め合った過ちは数多くあったが、これらを正しく検証するのは、後世の歴史家のみではない。ましてもや、人間の宿命的な業とかたずける権利も持たない。努力して努力して、過ちを認め、その傷が、互いに薄れ、癒えて行くように努めるのが理性ではなかろうか。善隣友好、言葉は易しい。しかし、実行し努力しなければ、真の友人たりえない。孫氏が、人生をかけて訴えたことを、いつまでも、忘れてはならない。近代オリンピックの意義も、そこにあるのではなかろうか。 (資料 Wikipedia)