わが国は敗戦後、これ迄の価値観や教育の内容ががらりと変わり、民主主義が 戦後教育に於いて、文化伝統の継承を遮断してしまい、わが民族が築いてきた道徳心や 規範意識の高さなどの誇るべき国民性の喪失が今日の社会の残虐な親殺し、子殺し、子供への虐待、老人への虐待等々の増加に象徴されているように思います。
昨年政権交代が起こりました。このことに、国民は確かな理由をどうあげるのか、 聞いてみたい。つまり、これからの日本人はどう生きようとしているのか、何を求めているのか、ということである。昔から、いろいろな社会的集会や人の集まりの中で、積極的に発言する人は少なく、また決まった人数の意見で、賛否をとり、決定されていくことが多かったと思う。最後に賛否をとることで多数決で決まっていく、これは民主主義そのもので、良いことに違いないが、丁々発止の議論やディベートが苦手な国民であると言える。
民主主義はディベートが第一義的な基盤になるということではないでしょうか。さて、このディベートは我が国で小学校から、いえその前の就学前の団体生活を始める段階から習慣づけることを始めるべきであろうかと思います。
私は先日、成人式の日に若者の前で、ご挨拶をする機会を得ました時に次のことをしっかりとスピーチさせていただきました。
「これまで、皆さんを見守って育てて下さった学校の先生、ご両親やご家族、先輩や友人の方たちとの関わりがあって成人となられ、この先幾通り進んでいかれる道があられると思う。しかし『惰性』にだけは流れないでいただきたい。つまり、自分で考え、行動してほしい。英文の中でyouやhe, she, we, theyは文章の中では小文字で現れますが、一人称の「I」だけは文章の頭でも、文の途中でも大文字ですね。これは自分というものをしっかり持ちましょう、自分の意見をしっかり持ちましょうということなのです。決して自分中心でも、自分よがりでは「ない」のです。これから選挙には必ず行かなければならない義務がありますね。このこと一つとりましても、一日一日が「惰性」に流れていては次の時代は背負えません、大人にはなれませんね。・・・」といったくだりでした。
さて、アメリカの社会では、組織全体として議論が建設的であるということは、個人主義的な立場からは他人との「妥協」を意味しますので、そうした展開にはなりません。一つ案に対して「是」か「非」を論争しますから、単純明快で誰にでも判ります。
つまり「議論」で勝負、つまり議論で勝ち負けを決するのです。その後、負けた方も賛否の採決で、数が多かった方に従う社会となっています。しかし、我が国ではそこに感情が入ってくる、厄介なことが後をひくことが多いのです。それは充分ディベートが出来なくているからだと思います。これからの日本の社会は「この日本をどう生きて、どう進んでいこうか」を大いに議論をしていかなければならないと思います。
もう一つ大事なことがあります。それは、アメリカでは人間がそもそも「人と神の間の契約」によって成り立っているという考え方。アメリカ人にとっては自立と神の関係が第一義的であり、他人との関係は第二義的であるのです。
各個人がそのような考えをベースに持った社会ですから、結果として個人が尊重される社会となるわけです。私のうちでは、12?15才の頃に、必ずバイブルの時間を授業にしている学校を選択し、入学させました。この年齢の頃に、バイブルに触れることは将来、海外に出て国際人として仕事をする上で、つまり英語をベースにした言語の世界では、聖書を理解しているのといないのでは仕事の進み方、お互いの理解の仕方が英語力の次に大きな関わりを持つからでした。
このことを考える時、果たして日本の若者に「家庭のしつけ」「教育のあり方」と言っても、即興的でしか過ぎず、若者の心の中に浸透して真の人間形成にどれだけ役に立つことが出来るか私には疑問が残ります。
最後に今、我が国は現政権が掲げる国立国会図書館法の改正や国立追悼施設の建設や選択的な夫婦別姓の早期実現、日中関係の更なる深化、国籍選択制度の見直しや永住外国人の地方選挙権などにみられることは「国家解体政策論」と言えるものであり、このままでは、日本は「多民族国家」になってしまうのでは!と危惧しています。
「自分の国を誇れなくて一体どうするのでしょうか。」